「茶室・茶席/瑜伽庵の点前座のお茶碗を変えました」
と、題にするのが本当は適切かもしれません。
黄瀬戸は向付の見立て茶碗が圧倒的に多いので、その後作られるものも筒形のお茶碗が多いと思われます。
お出ししたお茶碗は平茶碗です。
上口愚朗(かみぐち ぐろう)氏の作品です。
江戸千家の箱書きがあります。
上口愚朗氏(本名作次郎)は、明治25年生まれ、明治天皇の洋服を作った皇室御用の大谷洋服店で修業し、大正5年に25歳で独立して、生まれ育った谷中で超高級洋服店を開業した。
国産服地は使わない。店に来なきゃ作らない。値段は作ってからでないと分らない。
超高級で型崩れ無用の一般の洋服の4,5倍はする服だったそうです。
お店の造りは「黒い丸太のような家」で屋根から「木彫りの大きな黒い顔」が4つ下を見下ろし入り口にトーテムポールが立っていて「超流行カミグチ中等洋服店」の看板があったとの事。
世間の人は誰言うとなく「谷中のグロテスクな家」と呼び「愚朗天宿(グロテスク)」と書いて雅号になったと聞きます。
店は趣味の喫茶店の様な洋服店で、お客さんも文化人、著名人のたまり場になっていたそうです。
(瑜伽庵もそうなるとよいのですが)
愚朗氏は多趣味でそのようなお客さんが来る事も有り、更には素晴らしい洋服を作る手先の器用さも抜群で、陶器造り、書、日本画、油絵、盆栽、写真、古下駄・古洋服・古時計の収集と才能を発揮しました。
大正9年6月10日の第一回「時の記念日」に、お茶の水の教育博物館(国立科学博物館の前進)で、初めて「時計展」が開催され、この時計展を見て時計収集熱が上がり今の「大名時計博物館」につながると聞きます。
陶器造りは、個性豊かな「愚朗焼」を創作し主に茶碗を製作し愛好者も多かったとの事です。
【注】《「父と大名時計博物館 平成4年5月10日」大名時計博物館館長 上口 等 氏 を参考とした》
瑜伽庵のお茶碗はこの愚朗焼で、「抜け胆礬(たんぱん)」になっています。
「抜け胆礬」は日本陶磁協会理事の黒田和哉氏の文によると
『黄瀬戸茶碗で茶人に喜ばれるのは「胆礬」と「油揚手(あぶらげで)」である。 胆礬は緑色に発色する銅釉を使うが表面だけでなく内側に緑が映るものがありこれを「抜け胆礬」として最も珍重される。「油揚手」は文字通り油揚げ肌のもので、この二つを備えた作品を上とする。』
と有ります。
写真の写しが悪いのですが「抜け胆礬」が分るでしょうか?
見に来てください。