谷中と駄菓子屋

今は、三崎坂を下り切って、枇杷橋の大沢鼈甲を右に入って、谷中銀座までの左に1件(屋号不明)あるのみとなりましたが、店主の子供の頃は、柏湯(現在のスカイ・ザ・バスハウス)を右に折れて、言問通りの谷中6丁目交差点を大行寺前の道の交差した変形のT字路角に、「石田屋」さんと言う駄菓子屋さんがありました。

そこが店主行きつけの駄菓子屋さんです。

また、三崎坂方向の下る前、珍珍亭さんの3軒先ほど先、右にも、屋号は知りませんでしたが、駄菓子屋さんがありました。

石田屋さんが店を閉めても、こちらは15年ほど長くやっていたと思います。

当店の通り向こうの、上野桜木には、駄菓子屋さんはなく、上野桜木から見て一番近い、石田屋さんに子供たちは集まったものです。店主は越境して、根岸小学校に行っていましたので、上野桜木の子供と多く遊んでいました。もっとも、当時の谷中町会(谷中6丁目が旧名=谷中町で谷中何々と町名がない)は、今でもそうかもしれませんが、お寺の敷地が大きく、当時も子供たちは少なかったと記憶しています。

日暮里の東口は、今は再開発が終わり想像もつきませんが、東口を出て左側、西日暮里の間に多くの木造の駄菓子問屋が当時からしばらくあり、何店かは、開発後のビルに入っていると思います。

今考えると、問屋が近くにある、最新のおもちゃがある良い駄菓子屋群だったのかなと思います。

日暮里の問屋も、蔵前から浅草橋のが、今は多いと思います。

そうそう、三丁目の夕日みたいに、路地裏は土の道というのは、嘘です。駄菓子屋前の道、路地、すべて舗装されていました。あれは地方都市と何か混合された心の想像の町でしょう。東京下町は戦前も都会です。